感動と知識の関係について

知識無しには感動は得られない、と言うお話。

例えば、コミックを読む場合、最低限、文字が読めなければ、何も得ることは出来ない。文字が読めたとして、漢字はどうだろうか。これも読める必要があるだろう。所謂、少年少女マンガには、ふりがながふってはいるが、意味が理解できなければ、読めたことにはならない。

例え読むことができたとしても、今のコミックは、専門知識を使ってかかれており、少なくとも基礎知識くらいは身につけていなければ、感動は得られない。現代の話の場合、時事問題がネタとして取り上げられる。昔の話の場合、歴史を知っている必要がある。日本の昔の場合は、古文も出てくる。未来の話の場合は、科学の知識、推理ものの場合は、化学の知識が必要だ。

一見、社会に出て役に立たないことを、学校でやっていると思われているかもしれないが、実は感動を得るためには、必須知識が多いのである。

ゲームの場合を考えてみよう。RPGは、歴史や時事や科学、何でも題材に使われる。シミュレーションは、最も頭を使う遊びであるから、疑問の余地はないだろう。アクションでも、コントローラの説明が読めなければ意味がない。また、最近は指の運動だけでは直ぐに飽きられるので、RPGにしたものが多い。恋愛シミュレーションも、無知な男には振り向いてもらえない。

つまらない世の中だ、と言うヤツがいる。実は、世の中は、感動に満ち溢れている。つまらないのは、知識を得る努力をしていないからに他ならない。

言い換えれば、自分が知識を得るための努力を何にもしていない、「無能者」である事を宣伝している訳である。そして、つまらないと言っては、安易に暇つぶし可能な、「いじめ」を行い、自分を誤魔化して生きている、という訳である。

これでは、生まれてきた意味がまるでない。例え親に望まれて生まれてきたのではない人であっても、生まれてきたのには、「必ず」意味がある。それを社会生活を営みながら考えるのが、「理性」を持って生まれてきた「人」のするべき事である。

この努力をせずに、いたずらに時を過ごすのであれば、「人」の環境を維持するためだけに生まれてきている動植物と何ら代わりはない。即ち、「環境人間」と言う訳である。「人」と動植物との違いは、この1点に集約される。動植物は、「理性」を持ってはいない。彼らにあるのは、日常生活を営むに必要な「本能」だけである。そして、「人」のための環境を整えて、その生涯を閉じるのである。

「人」がこの本能に従って生きることは、酷く単純で、酷く簡単なことであり、「人」である事を放棄することに他ならない。いじめは正に「本能」に根ざした行為であり、「理性」を持った「人」のする事ではない。いじめをする人間は、「人」である事を放棄した人間であり、動植物と同等の「環境人間」に、自らをおとしめているのである。

世の中は、感動に満ち溢れている。

コミックやゲームしか知らない人が多いかもしれないが、実は小説には、随所に感動がちりばめられている。文字を読み、内容を想像する努力さえすれば、そして、内容を理解するだけの知識を身につけていさえすれば、コミックやゲーム以上の感動を得ることができるのだ。だからこそ、小説を読んだことのある人は、続けて何冊も小説を読んでいるのである。

映画からも感動を得ることができる。内容を理解するだけの知識を身につけていさえすれば。実は、仕事でも感動を得ることができる。所謂ワーカーホーリックは、この類である。無論、ワーカーホーリックは、「理性」に根ざした行為ではなく、「本能」に根ざした行為であるから、「人」である事を放棄していると言える。早く現状から脱却し、生まれてきた目的を考える本来の生活に戻って欲しいものである。過ぎたるは及ばざるが如しである。

つまらない世の中だ、と言うヤツがいる。実は、世の中は、感動に満ち溢れている。つまらないのは、知識を得る努力をしていないからに他ならない。

だが、努力は簡単にできるものではない。努力している間は感動を味わうことは出来ない。従って、これ程説明してみた所で、努力してみようと言う「環境人間」が現れるとは思えない。それならば、いっそのこと、真っ当に生きようとしている「人」の邪魔等しておらずに、サッサとこの世からいなくなって欲しいものであるが、憎まれっ子世にはばかる、でなかなかくたばるものではない。むしろ、そんな人間こそ、この世に蔓延るものなのである。

くれぐれも真っ当に生きようとしている「人」の邪魔をせずに、隅っこで生きて行って欲しいものである。貴方は、「人」の環境を維持するためだけに生まれてきた「環境人間」なのだから。

# と、これだけ挑発してもやっぱだめか。(チャン、チャン)

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