2010/9/17の判決で気になった点をいくつか。
1.致死までは適用できないとした点。
理由は100%ではなかったから。そもそもこの法律は、救急車を呼んで助けられなかった場合でも、責任は問えない、ために存在する。「救急車を呼ぶこと」は「人間」であるならばデフォルトである。だからこそ法律化まではされていない。法律にないから義務がないのではない。救急車を呼ばなかったことは、人間であることを放棄したことにほかならない。法律とは人間にのみ適用されるものである。従って、この場合、野犬が人間を死に至らしめた様なものであり、薬殺が適当である。
人間らしい道徳的な行動だったかを多数決で決めるため、「裁判員制度」を作ったのではないのか。それ以外に「裁判員制度」の使い道はない。
2.立証できない場合は被告の権利(疑わしきは罰せず)
これは、そもそも犯罪を何も起こしていないのに、犯罪者に仕立て上げられる「冤罪」を防ぐためのものである。最低限、薬物使用を認めている以上、今回は、冤罪ではない。程度の問題である。懲役が何年かと本人が更生するかどうかは無関係である。更生したと判断すれば、刑期に関係なく釈放しているではないか。むしろ、更生を確かなものとするためにも、死んでしまったことを最も自覚してもらうため、「致死」を適用すべきである。
犯罪歴を問うならば、痴漢行為をろくに調べもせず、決めつけているではないか。犯罪歴はつくが罰金で済むぞと言って。司法が犯罪歴をいい加減に考えていることは明白である。今更ここでそれを問うのか。
3.誘導が行われた事実
裁判員の記者会見を聞いて愕然とした。裁判官から、「予め」立証できない場合は被告の権利、と聞いていたと言うのである。これは結論を「誘導」するためのものである。これでは誰が聞いても同じ結論に至ってしまう。「誘導」である。
これでは何人裁判員を動員しても、同じ結論にしかならない。「誘導」しているのだから。これでは「裁判員制度」の意味がない。
今回の判例で、またいくつか「裁判員制度」不要理由が見つかった。私が動員された時は是非とも上記理由を問いたい。(私が無茶苦茶を言っているのではない。司法が無茶苦茶をやってきたのだ。自覚は全くないだろうが)