権利とは何か

権利を言う時に必ず出てくるのは義務である。

ここから先は、小学校の社会科で習ったことである。

社会は、2人以上の人間が集まったものをいう。原始時代には、自給自足の生活をしていた。ここに存在する大原則は、働かざるもの食うべからず、である。

そのうち各人に、得手不得手が出、得意なものを余分に作り、不得意なものを他人と交換し、補うことにより自給自足の生活を維持していた。この段階でも大原則に変化はない。

これにより、人々に余裕ができ、色々なことに挑戦するようになり、さまざまな職業が生まれてきた。この中には、宗教も含まれている。当然、この段階でも大原則に変化はない。貨幣経済となり、実質的に働かなくとも食っている人たちが多数存在するのは事実だが、本当は間違いである。

社会とは、そこに住む全ての人が例外なく、社会に何らかの寄与することによって成り立つものである。

とはいえ、このサバイバルレースに順応できない人間も勿論いる。そういう人たちにも、生きる気さえあれば、生きられる場所は与えられている。但し、人間らしい生活ができるかどうかは別である。当然だろう。社会に何の寄与もしない人間に、同じ生活が与えられるはずはない。

さて、ここで権利である。ひとりの人間が権力を行使することによって、これを実現するために動かなければならない人間は複数生まれる。即ち、彼らには義務が生まれるのである。

言い換えれば、社会とは、そこに住む全ての人が例外なく、義務を果たすことによって成り立つものなのである。そして、必要に応じて権利を主張するのである。全ての人間が、権利だけを主張し、義務を果たさなければ、社会は崩壊してしまう 。

宗教は、物を生産しないという意味では、社会に貢献してはいないのだが、人々に心の平和をもたらす意味で、社会と共存している。勿論、戦争も起こしてきたが。仏教は、説教という形で、近隣の人達に門戸を開き、キリスト教は、ボランティアという形で、社会と共存している。新教宗教は、少なくとも社会に仇なしてはいない。彼らの生活物資は我々が「与えて」やっている訳だが、納得できる状況にはある。

さてここに、社会的な義務を果たさないばかりか、社会に仇なすことをしておきながら、権利だけを主張する人間がいる。こういう人間たちの権利を認めていては、社会は成り立たなくなってしまうのではないだろうか。少なくとも逃げている仲間を自分達で捜し出し、自首をさせてこそ話し合いの余地があるという物である。義務も果たさない人間の権利など守って欲しくない。義務を果たしている人間こそ、弁護士は権利を守ってやるべきである。彼らの権利を守ってやるならば、まず彼らに義務を果たさせるべきだろう。

彼らは、近隣の人達に門戸を開こうともせずに、理解を求めているようだが、自分たちが社会に養われている存在であることをもっと認識するべきである。貨幣経済だからこそ、生活物資を手に入れられるのである。自分達だけで生きて行きたいのであれば、未開の土地で自給自足するべきだろう。現状で自給自足ができないのであれば、我々を皆殺しにした後、自分達だけで生きていける筈がないではないか。

彼らが社会にどの様な貢献をしているか聞いてみたいものである。それとも彼らは、小学校の社会科で習うことも、理解できないのであろうか?

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