勉強について
これは、小学校の社会科で習ったことである。大昔のことなので、間違っている部分もあるかもしれないが、概略はあっていると思っている。
その昔、勉強は、武士しかする事が許されなかった。また、商人は、読み・書き・そろばんが出来れば、店を持つことが出来た。
暫くして、一般大衆にも勉強の機会を、と言うことで、寺子屋が生まれた。そこでは、読み・書き・そろばんが教えられた。しかし、一般大衆まで読み・書き・そろばんが出来てしまうと、店を与える基準が判らなくなってしまった。そこで、店を与える基準を引き上げ、読み・書き・そろばん以外にも、役立つ知識を持っている人に店を与えることにした。
こうして勉強は、次第に高度化を要求され、尚かつ、余分な知識を教わる金も時間も持ち合わせている金持ちの子供だけのものとなっていった。
この傾向は、戦後、義務教育が制度化されるまで続いた。ここに至るまで、教育費は、かなり安くなってきており、決して金持ちしか学校に行けなかったわけではないが、生徒の殆どを占める農家の子供の場合、学校に行く時間があるなら、田畑を手伝うのが当たり前だったからだ。
そこで、自由を謳った新憲法のもとでは、全ての子供に教育を受ける権利を与え、親には、子供を学校へ送る義務を与え、家の手伝いを理由に、学校へ来させない親を牽制したのである。そして、この義務は、地方自治体や国にも持たせたのである。義務教育の始まりである。
この頃には、職業の種類も増え、店を持つことが、必ずしも最終目標ではなくなったが、雇う方にしてみれば、役に立つ人を採用したい訳で、選別されることになった。従って、雇ってもらう方としては、他の人との差別化を示す必要があり、学校で学ぶ知識は高度化していった。そして今に至っているのである。
学校で学ぶ目的は、
学校に居る間に、仕事が決められるのであれば、2では、その仕事に必要な知識だけを学べばよいが、その仕事が死ぬまで続けられるとは限らない。全く別の仕事に就かなければならないときのために、他の知識も一緒に学んで置くに越したことはない。また、全く無関係の知識を結びつけることによって、自分の仕事を発展させられる可能性もある。仕事を始めてからでは、仕事に追われてなかなか新しい知識を身につけることは困難であり、そのための時間が充分にある学生時代に勉強することは、お得でもある。
小中高大学で学ぶ基礎知識だけで、世界の企業とやり合えるような仕事が出来るわけではない。会社に入ってからは、その仕事に特化した、世界の企業とやり合えるような知識の習得が待っている。いわば、小中高大学は、勉強の仕方を学ぶのが目的であり、会社に入って、それを実践するのである。会社に入ってからは、社内教育もあるにはあるが、基礎的なものであり、基本的には自助努力によって、学んでいかなければならない。他の人と全く同じ仕事を与えられると言うことは有り得ない。従って、その仕事に必要な知識は、最終的には、貴方しか持つことはない。勉強は、学校で終わると、誰もが思ってしまうのだが、残念ながら、人間死ぬまで勉強なのである。
結論として、勉強は、選別のために行なっているのであるから、落ちこぼれが出るのは当然である。しかし、勉強に落ちこぼれたからと言って、人生に落ちこぼれたと悲観する必要は全くない。人間至る所に青山あり。当たり前の勉強だけが勉強ではないし、当たり前の仕事だけが仕事でもない。今の時代は、仕事が多様化しており、貴方にあった仕事は必ずある。それを見つけることをやめたとき、人生の落ちこぼれになるのである。人生の勉強だけは続けて行って欲しいものである。